土木技術の最先端、小野式隧道工法
御堂筋線天王寺駅に到着。人ごみの激しい中、わざわざ天王寺発の2番線から発車する列車を待って、
かぶりつき位置に陣取る私。笑 今回の乗車列車は21613F。軽快に走行し、動物園前を発車します。
乗っていると、天王寺〜大国町間は、実に様々な掘り方で地下鉄を作っていたことがわかります。
昭和11年に作られたので、当時は現在主流の、横から機械を使って掘っていく「シールドトンネル方式」がなく、
上から穴を掘り、後で埋め戻す「開削工法」か主流でしたが、昭和初期当時でも道路交通量の多かったこの地域では、
様々な掘り方が考案されました。
そのうちの一つが、動物園前〜大国町間の戎本町2丁目〜花園北1丁目の約52m間に採用された「小野式隧道工法」です。
これは北海道帝国大学の教授・工学博士であった「小野 諒兄(おの りょうえ)」氏が考案したものです。
同氏は鉄道土木技術研究者で、1953年頃まで著書を発表したりと鉄道土木技術の発展に寄与していた人物です。
建設当時、1935年12月15日付けの報知新聞には、こんな記事も記載されています。
札幌発=近代文化の立体線上に躍り出た地下鉄道は今後益々かがやかしい進展力を約束づけられ、東京、大阪等の大都市の地底をあたかもクモの巣の如く縫わんとしている、
しかしその施工法においては従来甚だ幼稚な域を脱せず、これが改良に着目した北大教授工学博士小野諒兄氏は十数年にわたり鉄道工学のうん蓄を傾けて研究の結果、
ついに成功、昨年二月新橋駅において地下鉄の連絡道路に第一回の試験を行い非常な好評を博したが、今回いよいよ大阪市高速度電気鉄道第一号線中西成区東四条三丁目の
地下鉄建設に際し同博士の方法を採用することに決定、大阪市当局では鉄道、内務両省の認可を得て去る六日、小野博士の許に採用許可を申込んで来た、
永年の研究ついに酬いられていよいよ文化の実践に供せられんとする小野博士の地下鉄道建設法とはどんなものか?
それは施行の安全、交通支障の減少、建設費の安価を目的にした画期的研究の成就である、現在日本で採用されている方法は東京はベルリンから大阪はボストンから輸入した
路面開鑿法であるが、地下鉄はその性質上最も繁華な都市の中心地帯に施行される関係上、この方法によれば交通障害多く且莫大な建設費を犠牲にするものである、
小野博士の方法は前記三条件を目標に先ず道路面から両側にIビーム(鉄くい)を打込んで地下鉄の側柱とし、地下において横梁と籠梁を組合せ籠状をつくり土圧を受けて後、
中央を掘鑿し最後に籠状をコンクリートで被包し地下鉄構造物となす方法である、即ち道路両側に五尺または六尺間隔に鉄くいを打込み工区の初めの端に出発坑を掘鑿し
両側鉄柱の間に横梁を電気溶接によってむすび合せその上端から数列の天井縦梁を挿し込む、縦梁には土留板を施しつつ下部を掘鑿して次の鉄柱に至る、
この順序を繰返して地下鉄を構成するものである、この方法によれば表面まで掘鑿する必要はなく従って交通障害は少い、且最初に鉄くいを打込むから従来のトンネル法の如き
路面の沈下を防ぎ施行法も簡単で費用は約三分のニですむ、しかも耐久力は結果の構造が同じだから従来同様である、
費用を見るに従来の方法では一哩につき構造物百六十万円、準備費百七十万円、小野博士の方法では準備費は全然なく合計二百三十万円ですむから一哩につき約百万円浮くことになる、
報知新聞 1935.12.15(昭和10)付 記事
並びに神戸大学Webサイト、http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00097672&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JAより
という、私たち素人目にはわかりにくい、かなり特殊な掘削方法で施工されたようです。
シールドマシンの無い時代に横から掘る事が出来るというメリットはありましたが、資料によれば天井側にコンクリートを打ち込みづらく、
また防水施工が出来なかったので雨漏りや地下水の漏水が激しく、最終的にモルタル(砂と水とセメントの混合液)を大量に吹きかけた…という話が記録されています。
)大阪市地下鉄建設70年のあゆみ―128pより
そして本題なのですが、その小野式隧道工法区間が、どうやら今回の謎の答えのようなのです。
▲同区間の写真。
というのも、この写真をご覧頂ければおわかりになると思いますが、確かに壁面部分が一部明るく、駅の準備工事状態のようなものになっています。
これは、小野式隧道工法区間の補修工事を2006-2007年間に行い、鋼板接着とブラケット設置により躯体コンクリートなどの構造物を補強するほか、
鋼板には腐食防止のための塗装を行なった結果のようです。
)建通新聞 2008.6.17付よりhttp://www.kentsu.co.jp/webnews/html/080528700025.html
▲わかりやすいように画像を少し加工してみました。上記で示した区間が恐らく「小野式隧道工法区間」であると思われます。
結論
ということで、・好奇心、探究心を持たれた一般の方が、他と違う構造をした該当区間を見て駅だと思われ、一部で噂が広まった
・この該当区間は「小野式隧道工法」と呼ばれる特殊なもので、昭和初期の土木技術の最先端であった。
・該当区間には昭和初期の計画時から、この地に元々旅客駅設置の予定はなかった
これらのことから、この噂の事の発端は、この特殊なトンネルを見た一般の方が、噂としてネットに公開した…というところでしょうか。
該当隧道区間が他と違った構造をしていて、また補強後に塗装の関係で柱が明るく見えることから、そう思われたものと推測します。
小野博士も、まさか80年後に苦心して考案したこの小野式隧道建設工法が、思わぬところで噂のタネになるとは思ってもみなかったでしょう(笑)
当時の大阪市が持つ先見性・技術力・土木技術は大日本帝国の最先端でもあり、「大大阪」と呼ばれた華々しい時代でした。
その数々の遺跡は、80年経った今の大阪市営地下鉄の随所、特に数々の隧道(トンネル)に垣間見ることが出来ます。
あの阪急電鉄創業者、小林一三ですら反対した地下鉄建設を断行した、関 大阪市長(初代)の先見性に、私達は敬意を示すと共に、
これからも大切に使っていかなければいけませんね。
December 04th 2012. Series207